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執筆者の写真中村義之

ベンチャー経営者だった僕が農家になった理由。「ただここにいるだけでいい」を信じる旅(4/7)



こちらの記事は、2023年1月28日、https://note.com/ に掲載した内容を転載したものです。

断崖絶壁のお堂


「このお寺に参詣したいんですが、2名以上じゃないと入山できないので、一緒に行ってくれませんか?」


当時、よく一緒に山に登っていた友人の泉健治郎さんにこんなメッセージを送ったのは、2021年6月末ごろだったと思う。


泉さんは、上場経験のある起業家で、彼が福岡に移住する前後に知り合った。知り合ってからの年月は浅いものの、僕は彼の人柄が好きになり、事業の相談や壁打ち相手になってもらっていた。


僕からの突然のお誘いにもかかわらず、泉さんは二つ返事で快諾してくれて、8月ごろにそのお寺に参詣する予定が決まった。


そのお寺というのは、鳥取県の山の中にある「三徳山三佛寺」。


その境内にある「投入堂」という断崖絶壁に建てられたお堂に参詣するには、滑落の危険のある細い山道や、鎖を使ってよじ登る急登を越えていかなければならない。参詣道の入り口には受付があって、安全のため、2名以上のグループでなければ入山できないことになっている。


例によってひょんなことからこの投入堂に参詣したくなったので、泉さんにお声がけしたというわけだ。



参詣道中の対話


2021年8月下旬、お盆が過ぎて、多少暑さがマシになってきた頃、泉さんと僕は博多駅から新幹線で広島駅に向かい、そこからレンタカーで鳥取を目指した。広島から鳥取の目的地まで、3時間以上かかったと思う。僕は運転しながら、泉さんに直近の葛藤を打ち明けた。


僕が会社をどんなふうにしていきたいか、どういう事業の構想があるか。そして、僕が会社のメンバーにどのようなコミュニケーションをしてしまっているか、そのコミュニケーションに自分自身が納得できていないこと、それにもかかわらず、自分のやり方に固執してしまうもどかしさ。全部、包み隠さずお話しした。


往路の道中は、ほとんど僕が話しっぱなしで時間が経過したように記憶している。泉さんは傾聴に徹してくれて、話しただけでも少し気持ちが軽くなった。



三佛寺投入堂


投入堂までの参詣道は、安全のために雨天は閉鎖される。広島駅でレンタカーに乗車したときは大雨だったので内心ヒヤヒヤしたものの、中国山脈を越えて日本海側に出ると、雲のない快晴だった。


ふもとの食堂で昼食を済ませ、お寺に向かう。駐車場に着き、車から出ると、標高が高いためか、8月の暑さがそれほど苦しくない。お寺の受付で入山の手続きを済ませ、険しい参詣道へと入って行った。


三佛寺はその縁起によると、1300年以上の歴史ある古刹だ。投入堂までの参詣道は険しいもののよく管理されていて、注意深く歩を進めれば、それほど難儀しなかった。


僕がお誘いした手前、泉さんが楽しんでくれるかどうかが気がかりだったけれど、アスレチック感のある参詣道を楽しんでくれて何よりだった。投入堂までは、半時間ほどで到着した。


投入堂は、修験道の開祖である役小角(えんのおづぬ)が法力によって投げ入れたという伝説が残っている以外、建立方法は謎に包まれている。お堂が建てられた崖を見上げられる場所が参詣道の終着点だ。


投入堂に最接近できる場所から筆者撮影



神秘に包まれたお堂の前で合掌し、お遍路で覚えた般若心経を唱えた。いつ、誰が、どうやって建てたとも分からぬ山奥のお堂。建立から何百年もの長い歳月、数えきれないほどの人が参詣したであろうことに思いを馳せる。


自分が今向き合っている葛藤に、どれほどの意味があろうか。大袈裟にとらえることもできるし、取るに足らないことにも思える。とにかく、参詣を済ませて、清々しい気持ちになったことは確かだ。僕がこの問題にどんな決着をつけるにせよ、その先に進むべき道が開けるだろう。



泉さんからの示唆


下山して、車へと戻った。8月の晴天下で運動したものだから、山の中とはいえどやはり汗をかく。汗を拭き、着替えを済ませて、エアコンを全開にして車を走らせた。


帰りの道中、泉さんから適切な示唆をいただいた。僕が今向き合っている執着は、事業そのものではなく、その方法とかやり方についてであるから、目的地は同じだとしても、アプローチを変えてみたらいいのではないか、など。泉さんらしい、現実的で、実践的なアドバイスだった。


しかし、そのアドバイスが現実的で、実践的なものであるが故に、自分のこだわりの強さが浮き彫りになってくる。手をつけやすい選択肢を目の前に提案してくれているにもかかわらず、「やっぱり自分のやり方でやりたい」という執着が、道を譲ってくれないのである。なんとも、困ったものだ。



翌朝の決断


その後、米子市内のホテルにチェックインして、泉さんと近くの居酒屋で夕食を済ませた。長距離の移動と運転、山中での緊張感ある参詣で、ぐったりした疲労感があったので、いつともなく眠りに落ちた。


夢は、見なかったと思う。それぐらいぐっすり眠っていた。


目が覚めて、それまで発想さえしなかった考えが頭をよぎった。


会社をやめるしかないか・・。


今となってしまえば、なぜそういう発想が浮かんだのか、よく覚えていない。


事業そのものへの執着は手放したつもりだったのに、そのやり方や、いかに早く実現できるかに対するこだわりは抜けていなかった。


会社経営を継続しながら、その葛藤とじっくり向き合って、長い時間をかけて手放していく選択もあったのだろうけれど、そのときは何故か、このタイミングで会社を去ることが最善の選択のように思えた。


うん、会社をやめよう。


そう決心すると、目頭が熱くなってきた。


病気が再発する恐怖に打ち勝って起業して、4年もかけて黒字化を実現した会社。


思い入れのある会社、そこから去る、という決断。


その決断が正しいということを、思考よりも先に本能が理解したのかもしれない。


正しいが故に、去らねばならない。


去らねばならぬが故に、寂しくて涙が流れた。


寂しいけれど、きっとそれが正しい。


自分が真に願う会社の姿に、必ずしも自分自身が含まれている必要はない。


メンバーひとりひとりの個性が輝く会社、そんな会社になって欲しい。


その会社の代表にふさわしい人間は、僕でなくても構わない。



代表取締役の交代を提案


鳥取から帰宅して早速、当時取締役を務めてくれていた高尾さんとお話しする時間をいただいた。


これまでの自分の葛藤、どういう会社になってほしいか、その会社の代表には自分よりも高尾さんのほうがふさわしいと思う理由。


「高尾さんに代表取締役を交代したい」


あまりにも突然の提案だったと思う。にもかかわらず、高尾さんは僕の意志を尊重してくれて、代表に就任することを快諾してくれた。


返済しなければならない融資は2000万円近く残っているし、黒字決算を簡単に継続できるほどスタートアップの経営は易しくない。


そんな経営状況にもかかわらず、僕の突然のわがままに付き合ってくれた高尾さんには本当に感謝しかない。



荻原さんとの対話


高尾さんとの話を終えて、当時エンジェルとして出資してくださっていた荻原国啓さん(ゼロトゥワン株式会社代表)にもお時間をいただいた。


荻原さんは、僕が十数年スタートアップ業界にいて知り合った投資家・メンターの中で最も信頼している方の一人だ。経営が苦しいときも、事業がうまくいかないときも、親身になって伴走してくださって、何度も勇気づけていただいた。


そんな大恩がある方に対して、このときの僕のコミュニケーションの取り方は不味かったと思う。当時は自覚していなかったけれど、荻原さんに甘える気持ちがあったのかもしれない。無自覚に。


僕は、自分が直近で向き合っていた葛藤の内容と、それに正面から向き合った結果、代表取締役の交代を決断したことを荻原さんにお伝えした。


「中村さんを応援する気持ちで出資したのだから、事前に相談してほしかった」


感情的に色々と思うところがあられたはずなのに、諭すようにそう仰られたとき、僕は激しく後悔した。恩ある方に対して、筋の通った順番ではなかったなと。



送られた想いを受け取れない弱さ


創業間もない頃、荻原さんに経営メンターをお願いさせていただいたとき、また、資金繰りが厳しくなったときに出資してくださったとき、ちゃんと自覚していたはずだった。会社はもとより、僕自身を応援してくださっているのだと。


それなのに、代表の交代を告げるときは、荻原さんが会社を応援してくださることに関して、僕自身が会社にいるいないはあまり関係がないような気になっていた。何故そのようなすり替えを起こしてしまったのか。


きっと僕は、自分自身に送られた応援や期待をしっかり受け取ることができていなかったのだと思う。その想いに自分が応えられないかもしれない、という不安と弱さがあったのだと思う。


「応援していたのにダメだった」「期待していたのに見損なった」


幼いころから、そうやって手のひらを返されることを無意識に恐れていた。


だから、自分に向けられた応援や期待を、受けた当初は嬉しいはずなのに、自分とは別のものに向けられたという設定にすり替える。弱さ故の防衛反応が、人から送られた想いをふいにしてしまう。


「成長性のある事業だから出資してもらっている」とか、「社会的意義があるから出資してもらっている」とか。


有り難くも自分に向けられた想いのベクトルを、自分でない外型的なものに置き換えて、期待を損なってしまう恐れから逃避するスケープゴートを用意する。


僕が激しく後悔したのは、そんな弱い自分が浅はかな心理的防壁を築いていたことよりも、期待通りでなくても何も変わらず応援してくださる方の想いさえ、正面から受け取れていなかったという自分の態度だった。


本当に、向き合えば向き合うほど、僕という生き物は余計なものを身につけていて、手放しても手放しても、次に手放したくなる何かが目の前に立ちはだかる。情けない。でも、一つ一つ向き合うしかない。


そのときの荻原さんとの対話で、僕が抱えていた葛藤に対する有意義な示唆や、その葛藤が生じた心理的な構造についてご高察をいただいた。そして、未熟で至らないことの多かった僕の最後の決断さえ、暖かく受け止めていただいた。現在でも会社の伴走者として新しい経営メンバーのメンターを務めていただいている。


その翌週、会社のメンバー全体に代表取締役の交代を告げた。みんな、色々と思うところはあったろうけれど、誰一人匙を投げることなく、今も会社を、事業をより良くしようと働いてくれている。本当に有り難いことだ。


そういった経緯を経て、2021年9月で代表取締役を退任、2022年3月に取締役を退任して、僕は新しい人生のスタートを切った。


農業で身を立てる。そう固く決意して活動したのが2022年という年だった。



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