こちらの記事は、2023年1月28日、https://note.com/ に掲載した内容を転載したものです。
想いを受け取るカタチ
お金がない、でも稼げない(稼がない)、という行き詰まりで途方に暮れていた2022年11月某日。
「久しぶりに飲みにいきませんか?」
友人経営者の北川さんがLINEでお誘いしてくれた。今ちょっと金欠なので・・とお断りすると、「おごるので行きましょう」とのこと。断る理由がなくなった僕は日程を提案した。
飲み会の冒頭で、僕の金欠について心配してくれた北川さんの質問に答える形で、命とお金の葛藤と、稼ぐ意志がなくなっている状況について打ち明けた。
最初は僕の相談話だったけれど、湿っぽい飲み会は好きじゃないので、北川さんの会社経営や今後の事業方針についての話に話題を変えた。僕は人の会社の経営について一緒に考えるのが好きで、おせっかいかもしれないけれど、ついつい経営者自身と会社がもっとも輝く提案とか私見をお伝えしたくなってくる。
そんなふうに飲み会が進んでいって、そろそろ帰りましょうか、という頃だったと思う。
「今日、中村さんからもらった提案とアドバイスに対して、コンサルティング料を支払いたいので明日請求書を送ってください。」
僕としては飲み会の会話の延長だったので、お金を受け取ることに逡巡を示したのだけれど、「これで滞っている支払いをすべて払えるわけじゃないでしょうけど、何かの足しにしてください」とのこと。
僕の状況を心配して差し出してくれたご厚意を断れるほど意地っ張りではないし、余裕のある状況ではないので、何度も謝意をお伝えしてありがたくいただくことにした。
それから数日後、さらにこんなことがあった。僕は個人的な活動として、ポッドキャストのラジオ番組を運営している。その番組のリスナーのみなさんと月に1度オンラインで「オフ会」を開いている。
11月の末ごろに開催したオフ会でも、僕は恥を忍んで現在の自分が向き合っている葛藤と経済的な苦境を話すことになった。会の終盤だっただろうか、一人のリスナーの方が、「野菜を購入したい」と言ってくださった。僕は、端境期で大した野菜がないので、ちょっとしたものでよろしければ、お売りするというよりもお譲りしますよ、とお答えした。
翌日、そのリスナーさんに最寄駅までお越しいただいて、その日収穫したいくつかの野菜をお渡しした。すると、「野菜をいただいたお礼です」と言って、お米や食材を持ってきてくださっていた。ちょっとした野菜に対して釣り合わないぐらいの量だったので申し訳ない気持ちで、受け取ることを遠慮しようかと思ったけれど、断ればその方のお気持ちをふいにしてしまう。有り難く、いただくことにした。
そしてさらにその方は、バッグから封筒を取り出し、「これは寄付です」と仰る。いやいや、さすがにそこまでしていただくのは忍びないし、自分にそれだけの価値があるとは思えない。
「毎週、番組を楽しませていただいているので」
なんということだろう・・。こんなことってあるのか・・。こんなに素敵な方って世の中にいるものか・・。感動と驚きと、そのご厚意に見合う価値が自分にあるのかという戸惑いと、色々な感情が同時に湧いてきた。
にわかに信じられないような出来事で、それほどのお気持ちを示してくださったことに対して、お断りするのはさすがに憚られる。ここは気持ちよくお受けするのが誠意というものだろう。そう思って、有り難く頂戴することにした。
僕が取り扱いに困っていた「お金」というもの。こんなに清々しく、素敵な想いを込めて送ってくださる方々がいる。新鮮で、鮮烈な体験だった。
友人からのヒント
その翌日、新卒で入社した会社で同期だった友人の塩田元規(げんき)君が、東京からはるばる太宰府まで会いにきてくれた。天気がよかったので、どこかカフェに行くよりも、畑にキャンピングチェアを持っていって話そう、ということになった。
真っ青な空に晩秋らしくない陽光がふり注ぐ中、僕たちはお互いの近況について語り合った。僕が彼にお伝えしたのは、直近で自分が抱えていた葛藤と、この数日で起きた奇跡的とでもいうべき有り難い出来事についてだった。
「わらしべ長者みたいだね」
といって元規は面白がってくれて、自分が自分の意志で勝手につくりあげている苦境なんだから、気が済むまで味わうなり、楽しむといいよ、という趣旨のことを言ってくれた。
そうなんだよな、結局、自分自身の心の持ちようでしかない。気が済むまで悩んだら、いつかきっと気が晴れるはずだ。
東京からはるばる太宰府まで来てくれた元規は、その日、博多駅近くのホテルに宿泊する予定とのこと。ランチをご馳走になったので、そのお礼に軽トラでホテルまでお送りすることに。
ホテルまでの道中の会話を全部覚えているわけではないけれど、僕がどんな農法で野菜をつくっているか、これからどんな農園にしていきたいかを熱心に語ったことは覚えている。
そろそろホテルに到着しそうな頃になって、「ちょっとコンビニに寄ってくれない?」という。すると、コンビニのATMでお金をおろしてきた彼は、おもむろにポンと現金を僕に差し出した。
「これから1年、毎月野菜を配送してほしい。12万円あるから月1万円ってことで。」
いやいや、月1万円分の野菜なんて、とんでもない量になっちゃうし、今は畑が十分に広くないからそんなに量を送れない。少量で、とんでもなく高価な野菜ということになっちゃうよ?と僕は逡巡を示した。
ところが、彼は、「送れる分だけでいいよ。そんなに大量に食べられないし、そもそも、世の中の無農薬野菜の値段が安すぎるという問題意識があるから、応援の気持ちも込めている」と言ってくれた。
気持ちを込めて、お金を送られる。
立て続けに起きた、有り難くも心が満たされる出来事。
断る理由がみつからない僕は、心から感謝の意をお伝えした上で、お金を頂戴した。
早速その翌週に、初回の配送として里芋と生姜をお送りした。そして、これから毎月美味しくて栄養に満ちた野菜を送れるように頑張ろうと心に誓った。
「受け取る」ことの大切さ
その翌月、2022年12月には、また有り難い出会いがあった。
福岡県東部の山間部に、英彦山(ひこさん)という霊峰がある。かつては日本三大修験の一つとして多くの信仰を集めた山だ。その英彦山に現存する最古の宿坊に「守静坊(しゅじょうぼう)」という坊がある。その宿坊の再生プロジェクトがクラウドファンディングで資金集めをしていて、僕は活動の趣旨に感銘を受けて、寄付をさせて頂いた(もちろんまだお金が十分あった頃に)。
そのプロジェクトを主催している徳積財団の野見山広明さんから、「宿坊が再生したらぜひお越しください」とお誘いをいただいて、12月の農閑期になってようやく訪問する予定を組むことができた。
野見山さんとは一度イベントで名刺交換をしたぐらいで、じっくりお話しするのは今回が初めてだった。2日間に渡って、野見山さんが運営するいくつかの古民家をご案内くださって、夕食の席では興味深いお話を聞かせていただいた。
お金の不安と格闘しながら自然栽培の農業を軌道に乗せた農家さんのお話や、托鉢だけで生きておられる僧侶ご一家のお話など、これまでビジネスのネットワークでつくった人脈がほとんどだった僕にとって、知らない世界のお話をたくさんしてくださる。
お酒が入っていたことも手伝ってか、野見山さんの人徳に引き出されたのか、僕は初めてじっくりお話しするお相手にもかかわらず、直近で自分が抱えている葛藤について打ち明けた。
「大丈夫、きっとうまくいきますよ」
これまで様々な生き方を貫いている人々を多く見てきた野見山さんにそのように言ってもらえて、僕はとても勇気づけられた。僕だけじゃない。これまで多くの人が、お金との付き合い方に悩み、格闘し、納得のいく折り合いの付け方を見つけてきたんだ。自分も頑張って、自分のやり方を見いだそう。
2日間の行程が終わって、帰路につこうとするとき、「これ、ぜひ食べてください」といって野見山さんが会社の皆さんとつくった無農薬のお米をいただいた。
知り合ったばかりの、何者でもない自分に対して、こんなにも贈り物をしてくださる方がいるなんて。言葉にならない感謝の思いを胸で味わいながら、有り難く頂戴した。ずっしりと、お米以上の重みを感じた。
モノやお金を人に送るとき、想いも乗せて送られるものなんだな。
それを受け取ることっていうのは、なんと幸せなことだろうか。
言いようのない幸福感が、胸の奥から溢れてきた。
「お金」に対する潔癖性
「お金」というものに対して、僕は潔癖な態度を取りすぎていたのだと思う。いつからだろう、そんな潔癖性を持つに至ったのは。
思い返せば、お金がなくて苦しんだ時期は長かった。会社が赤字続きで資金がなくなりそうになったことは何度もあるし、思い出したくない辛酸も舐めてきた。
会社を上場させる前後でも、自分が内に秘めて抑圧していた金銭欲が湧いてきて戸惑ったこともあったし、お金が絡む利害関係で人が変わることも何度も目撃した。「金銭欲」というものを自分が抑圧していたからこそ、周囲のそういう態度がネガティブに映ったのかもしれない。
お金がない世界に住めたらどんなに楽だろう。
そう妄想することはいつでもあったし、今でもそういう妄想を楽しむときはある。でも、もうそれも終わりだ。
お金なんて概念にすぎないものに、潔癖であろうとするほど滑稽なこともないだろう。開き直った今では、素直にそう思える。
お金に色はない。
人が自由に、想いを込めたらいいだけだ。
新年につけた決着
2022年の年末から翌年の正月にかけて、僕は大いに体調を崩した。
高熱と喉の激しい痛み。念のため実施した抗原体検査では新型コロナウイルス「陰性」だったけれど、検査方法によっては陽性が出づらいらしいので、なんとも言えない。
病み上がりの体調がすぐれない状況で、滞納していた各種支払いの督促電話が鳴り始める。高熱のときは正月休みだったことがせめてもの救いだ。
年があらたまると気持ちも一新されるのか。あるいは、年の瀬におきた心温まる体験が頑なになっていた観念をほぐしたのか。
「ひとさまのお役に立てる仕事をして、ありがたくお金をいただく活動をしよう」
「農業で稼ぐのが一番だけど、それだけにこだわらない」
昨年、あれだけ意固地になっていた自分とは別人のように、あっけなく気持ちが切り替わった。「つきものが落ちる」とはこういうときに使う表現なのかもしれない。
そうやって気持ちが切り替わると、面白いことに色々とアイディアが湧いてくる。まずは、友人の元規が提案してくれた「月1万円の野菜配送」を今の農園の生産高で対応できる範囲内で広げていくことにした。
「月1万円の契約農家」と銘打って、本記事執筆時点で8名の方々がお申し込みしてくださっている。
命の素晴らしさを実感できるお仕事
心をこめてつくった野菜を食べて、元気で健康になってほしい。
自分がつくった野菜を食べて「おいしい」と言ってもらえたり、「野菜嫌いの子どもが食べた」というご報告をもらったりすると、心が躍るほどに嬉しい。
そんな気持ちのやりとりでお金をもらえるならば、そんなに嬉しいことはない。
健康の悩みや、経営やキャリアの悩みの相談に乗ったとき、「気持ちが楽になった」と言っていただけることがある。そのときも、とても嬉しい。野菜を食べてもらったときと同じような感動がある。
ブログを読んでくれた読者の方から、嬉しい感想が届くことがある。ポッドキャストのリスナーの方から、毎週の配信が楽しみだと言っていただける。しっかり感じれば感じるほど、これらの喜びは同じ種類のものだと気づく。
「自分がやりたいことは農業だけだ」と決め込んでいたときもあったけれど、同じような喜びとなるものはいくつも自分の内側にあることに気がついた。
もっと肩の力を抜いて、なにごとにもこだわらずに、しなやかに生きていきたい。2023年の初頭、心からそう思っている。
結局、僕は何がしたかったんだろう。何がしたいのだろう。
思い返すと、4年前のあの出来事がフラッシュバックしてくる。