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執筆者の写真中村義之

【内省の手引き】#008 ステップ5 感情を感じ切る方法

感情というエネルギーの性質


感情は身体感覚を伴う整理作用だ。ネガティブな感情を感じたくない余り、複雑な現象が起きているかのように錯覚することもあるが、法則としてはシンプルである。何らかの刺激や情報に対して、心身が反応することによって引き起こされる症状であり、エネルギーだ。


樹から落ちる林檎が地面に当たらない限り落下を止めないように、沸騰したお湯の熱が冷めるまで湯飲みを温め続けるように、発生したエネルギー(感情)が治まるためにはそのエネルギーを受け止める対象が必要だ。



感情を受け取るのは誰か


自分を知ることとは自分の心を知ることだ。自分の心とは自分の感情である。自分の感情とは自分の身体の生理現象だ。自分の身体で発生したエネルギーは、責任ある大人であれば自分の中で完結させて決着をつけたいものだ・・と文章で書くのは容易である。はてさて、なんと難しいことであろうか。


怒りを自分で感じずに他者にあたってしまったことなんて沢山あるし、悲しみの原因を他者に求めて責めたことなんて両の指の数では足りそうにない。自分の感情と向き合うことが内省だとしたら、この「感情の実感」こそが本丸である。この内省の手引き8本目の記事にしてようやく本題である。


エネルギーを解消するためにはその受け手となる対象が必要になる。その対象を他者にした場合、感情というエネルギーは解消されるだろうか。難しい問題である。これは筆者の個人的な経験則に過ぎないが、感情の矛先を他者に向けても「一時的」な解決にしかならないことが多い。慎重に断言を避けたとしても、感情というものは他者は対象にしえないのではないか。


別の考え方もある。例えば、怒りの矛先を他者に向けて、怒りにまかせて罵倒したとしよう。多くの場合、その罪悪感やバツの悪さによって、また異なる、厄介な感情が生じてしまう。無論、そのような行為に罪悪感を抱かない価値観で生きていれば話は別だろうが。


結局、自分の感情は最初から最後まで自分で感じ切ってしまわなければ解消されないし、仮に他の手段があったとしても、自分で完結させてしまったほうが始末がいい。


ある事象が起きたとする。その事象によってもたらされる刺激や情報によって、喜怒哀楽、どんな感情を発生させるかは、人によって千差万別。自分の生い立ちや原体験、価値観、人生観、健康状態などによって、どんな感情のエネルギーとして表現されるかが決定する。それはもう、完全に自分の問題である。どんな事象で発生した感情だろうとも、全部自分ごとである。



感情の感じ方


一日24時間過ごしていて、その日に一切の感情が発生しなかった、という日は珍しいと思う。社会生活を行っていれば日々何らかの感情を感じながら生きている。


もちろん、メンタル疾患などに罹患したら話は別だ。筆者にも罹患の経験があるが、ほとんど感情が動かない日々もあった。そういった例外を除けば、概ね毎日感情を感じながら生きている人がほとんどだと思う。


それが故に、「感情の感じ方」という項を書いているのは不思議に思える。人はみな、こんな文章を読むまでもなく日々感情を感じている。言い方を換えよう。「感情を最後まで感じ切る方法」とでも言おうか。自分の心身の作用で発生した感情を、最後まで感じ切って解消させる。その方法である。



感情を感じ切る方法


思考に意識を奪われない


感情をただ漠然と感じている状態と、感情を感じ切るためのアプローチには明確な違いがある。ここまで読み進めてくれた読者の皆さんにはとても自然なことに思ってもらえると思う。感情を感じ切るためには、その感情が宿っている身体の部位に意識を集中する必要がある。


感情をただ漠然と感じている状態というのは、身体感覚に意識が向かずに、思考に気を取られていることが多い。


「なぜ、あんなキツい言い方をされなきゃいけないんだろう」


「私が何か悪いことでもしたのかな」


「こんな仕事、引き受けなければよかったのに・・」


などなど、次々に発生する思考ともつかない雑念に意識を奪われる。感情が宿っている身体の部位に意識を向けて、エネルギーを感じ切らない限り解消されないとしたら、思考に意識を向けても仕方ない。


もちろん、目の前に何らかのトラブルが発生している場合は、解決するための思考が必要だろうが、それと内省は別である。緊急時や重大な感情が発生した場合は感じ切ることを後回しにしてもいいと思う。余裕があるときに向き合うことが肝要だ。


思考を止めるための方法はステップ1でご紹介済みなので、ぜひ実践してみてほしい。



感情を自分のものとして受け入れる


感情が宿る部位を特定する方法は、前回までの記事で紹介してきた。感情を感じ切るためには、その部位をしっかりと観察する。痛みならば痛み、熱ならば熱、重たさならば重たさに意識を集中する。


激しい感情ほど、エネルギーが大きいほど、感じ切るためには時間がかかる。頭にのぼった熱や、胸の痛み・苦しみに意識を集中してただジッとしているのは大変なことだ。


感情の種類によっては、衝動的・発作的な行動を起こしてしまいたくなることもあると思う。ただ、できる限り辛抱強く、感情を感じることだけに集中してほしい。筆者の経験上、感情に駆られた衝動的・発作的な行動で引き起こされるのは、さらに厄介な問題と感情だけだ。


どうすれば対処しやすくなるか。それは、「この感情は確かに自分のものだ」と、感情がそこにあることを認めることだ。受け入れること。確かに自分のものとして所有すること。

感情に感謝することも一つの手だ。自分とは自分の心だとしたら、感情こそが自分である。自分を自分ならしめている感情こそが、自分の人格に他ならない。どんなにひどい感情でも諦めるしかない。それが自分である。職業や役職、肩書などは虚構である。感情こそがリアルであって、自分が自分として寄って立つべきところのものである。


感情は、抑圧するものでなければ、克服するものでもない。感情は、その主人たる自分を、何かの衝動に駆り立てるために生まれてきたわけではない。ただ、主人に所有されることを望んで発生している。感じられることだけが感情の望みである。ただただ、本当にそれだけなのだ。



感じ切りやすくするための手段


感情が発生した瞬間に、即座に感情に向き合い、その場で感情を感じ切って解消する。いつ何時でもそんなことが可能だったら誰も苦労しない。その場で解消できる些細な感情など何の問題にもならないだろう。


現実的には、取り扱い難い、感じ切り難い感情こそが内省のテーマになる。即座に感じきれない感情を、少しでも扱いやすくするためにどんな方法があるだろうか。


まず、時間を置くこと。熱湯で淹れた紅茶をすぐに飲み干せないように、少し冷ますための時間を設ける。くれぐれも衝動的な行動には慎重になろう。もし衝動的な行動に及んでしまったら、その結果は素直に受け入れよう。さらに取り繕うと事態は深刻化してしまう。時間を置いて、冷めるまで待ってみる。


次に、場所を変えること。オフィスなどの職場で発生した感情であれば、休憩がてら外の空気を吸いに行く。あるいは、帰宅してから向き合う。対人関係の問題であれば、相手と空間を別にする。リラックスできる公園や自然の中に行くのも良い手だと思う。落ち着いた雰囲気のカフェなどもオススメだ。


最後は、人に話すこと。人間関係で発生した感情の場合、当事者同士で冷静に話し合えるならばそれに越したことはないが、往々にしてそれは難易度が高いだろう。信頼できる第三者に話を聞いてもらうといい。人間関係が原因の感情でなくても、人に話すことによって感情の「温度」は穏やかになることが多い。そのとき注意したいのは、聞き手を感情の吐口にしないこと。あくまでも感情は自分のものだ。


感情を感じ切るのは大変な作業だ。ものによっては何年もの歳月を要することもあると思う。幼少期や思春期の体験など、心の奥にしまっていた感情を引っ張り出すと、今でも生々しい感情が解消されずに残っていることに驚くこともある。時間をかけて、余裕をもって対峙するしかない。


この難しいプロセスを経さえすれば、「自分を知る」という内省の果実を得ることができる。次の記事では、その読み取り方について説明していきたい。




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