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執筆者の写真中村義之

【内省の手引き】#009 ステップ6 感情の読み取り

「感情」と「感情的」の違い


感情的になっているときに何度も頭に去来する思考や雑念と、根本的な「感情そのもの」は似て非なるものだ。ここまでのステップを何度も繰り返して、感情そのものを身体感覚として受け止める訓練を積むほどに、その違いは明確に感じられるだろう。


感情を感じる訓練に習熟し、それを習慣化すると、自分の意識の中にあるものが「思考」なのか「感情」なのかを瞬時に区別できるようになる。これ以降のステップに関しては、その区別が明確につくようになってから試してみてほしい。なぜなら、ここから先は感情よりも曖昧な「思考」も駆使していくからだ。


思考とは面白いもので、無いものを有るかのように表現したり、有るものを無いかのように表現したりできる。SFやファンタンジーなどの小説がいい例だ。しかし、感情はリアルである。感情は確かにここにある。感情を感じれば感じるほど、疑いようもなく、ごまかしようもなく、身体に宿っている。


内省における思考は、感情に立脚すべきである。思考に立脚する感情などはありえない。持ちようがない。あくまでも、揺るぎない感情を手がかりにして、「本当の自分」を発見してほしいと願う。


感情を客観的に観察することに習熟した方は、以下のステップを参考にしてほしい。それまでは、面倒に思えるかもしれないが、ひたすら感情と向き合うことを続けるのが「誤った(あるいは偏った)自己理解」に陥らないために必要なプロセスだ。



感情を客観的に観察する


感情の読み取りをするにあたって重要なのは、感情を客観的に取り扱うことだ。決して感情に呑まれてはいけない。感情を「ただ、ここにあるもの」としてしっかりと受け止めた上で、客観的に観察する。


感情を客観的に観察するための技術は、ステップ5で述べた感情を感じている状態の延長にある。思考や雑念を追うことなく、ひたすら身体感覚に集中する。


瞑想を実践している読者には良い方法がある。瞑想では普通、呼吸に集中していると思うが、その集中の対象を身体の感情が宿る部位に設定する。その身体感覚に意識の焦点をあてながら、ゆっくりと呼吸する。


瞑想の習慣がない方には、ぜひ日常的に瞑想や坐禅に取り組むことをオススメしたい。自分の身体感覚を客観的に観察する能力が養われる。つまり、身体感覚としての感情に対しても観察力が向上する。感情をしっかり感じながらも、感情に呑まれない状態をつくる。一見矛盾しているように思えるかもしれない。しかし、それは可能である。瞑想を実践すれば、体感的に分かってくる。



感情の読み取り方


感情に呑まれずにしっかりと客観的に観察する準備が整ったら、さっそく感情の読み取りに入っていこう。自分の感情をどのように感じるかなんて、他人にとやかく言われたくないものかもしれない。


それを承知であえて言うと、できれば以下の順番に沿ってやってみてほしい。思考よりも感情を優位にした状態でプロセスを進めるために筆者が心がけている順番だ。



1.感情の性質をとらえる


感情を読み取るにあたってまず最初にやるべきことは、その感情の性質をとらえることだ。分かりにくければ、「感情が身体に与える影響の種類」と理解してもらってもいい。


この文章を読んでいる読者のみなさんが、この瞬間、あるいは今日一日、ここ最近、向き合っているネガティブな感情があるとしたら、それについて思いを馳せてみてほしい。


自信をなくしているときや自尊心を傷つけられたとき、どんな身体感覚を感じるだろうか。手足に力が入らずに萎んでいく感覚があるとする。その感情はどんな性質だろうか。どんな認識をするのも自由だ。筆者はそういう感覚を、自分を卑小なものに感じさせる性質があるように感じる。


心ない言葉を浴びせられたり、攻撃的な言動をされたとき、どんな身体感覚を感じるだろうか。頭に血がのぼってイライラする感覚があるとする。その感情はどんな性質だろうか。筆者はそういう感覚を、自分の攻撃性にスイッチを入れる性質があるように感じる。あるいは、自己防衛的、自己弁護的な性質があるように感じるときもある。


孤独感や寂しさを感じるときは、どんな身体感覚があるだろうか。世界と自分が切り離されているような感覚や、胸の奥にぽっかり穴が空いたような感覚があるとする。筆者はそういう感覚を、世界(あるいは自分)が不完全で欠けたところがある存在に感じさせる性質があるように感じる。


自己表現を人に見られることが恥ずかしいと感じたり、人にどう見られるかを必要以上に気にしていたりするとき、どんな身体感覚を感じるだろうか。赤面して冷や汗が出てくる感覚があるとする。その感情はどんな性質だろうか。筆者はそういう感覚を、自分を人の目から遠ざけたい衝動を起こさせる性質があるように感じる。


感情の感じ方は人それぞれなので、正解はない。そういうものだし、それが個性だと思う。

大事なことは、思考的にならずに、あくまでも感情もたらす作用(エネルギーと言ってもいい)に忠実に描写するということだ。言語化が得意でない人は、絵を描いてみるといいかもしれない。ヒリヒリ、ズキズキなどの擬態的な表現でもいい。


物理法則のように、その感情が自分に与える影響を客観視する。言葉にする。絵にする。あるいは構造化する。感情という形のないものに少しだけ輪郭を与えて、取り扱いやすくすることが目的だ。



2.湧き上がる言葉や想いを捉える


感情の性質をとらえ、輪郭を与えることができたら、その感情に対してさらに冷静に対処できるはずだ。「感情」とそれに「影響されている自分」という関係性に加えて、「客観的に観察している自分」という視点を用意できる。


この状態で、引き続き感情を感じ続けてみよう。その感情が宿る身体部位に意識を集中する。観察しながら、様々な雑念や思考が湧いてくるはずだ。次のプロセスは、これらの雑念や思考を観察する。決して思考を追うのではない。その感情を感じた状態で湧き上がってくる言葉や想いを観察するのだ。


孤独感や寂しさを感じているときは、「誰々に会いたい」とか「誰々にメールしたい」とか、何か行動を起こそうとしている自分に気づくかもしれない。その衝動的な、あるいは落ち着かない気持ちから湧き上がってくる思考を客観視する。


感情がもたらす作用によって湧き上がってくる思考や言葉には、自分の内なる欲求や想いを発見するヒントが散りばめられている。したがって、とらえるべき思考や言葉は、「現在向き合っている感情によって発生しているもの」であるべきだ。


分かりやすく言うと、孤独感と向き合っているときに、「お腹がすいた」などの雑念は内省によってとらえるべき対象ではない。しかし、分かりにくい場合もある。例えば、「お酒を飲みたい」という思考が湧いてきたとする。これが単なる生理現象なのか、向き合いたい感情によって確かに引き起こされたものなのか、判断に悩むとする。


その時に必要なのが、ひとつ前のプロセスで把握した「感情の性質」である。孤独感を感じてみたら、胸にぽっかり穴が空いたような身体感覚を得たとする。「お酒を飲みたい」という考えが、その胸の穴を埋めるための衝動だと感じられたら、それは観察すべき対象だろう。孤独感を紛らわすためのアルコール摂取の衝動を客観視したことになる。反対に、感情と何の関係もなく感じられたら、このプロセスでは取り扱うべき対象ではない。


あくまでも、感情によって引き起こされた雑念や思考だけをとらえる。とらえては手放す、とらえては手放す、ただそれを繰り返す。そうすると、多くの場合、一定の傾向が見えてくる。いくつもいくつも、数えきれないぐらいとめどなく発生する雑念の内容に、共通する傾向を発見できる。


例えば、落ち着かない、ソワソワした気持ちと向き合っているときに、「ソワソワ落ち着かず、一つの場所にとどまっていられない」という感情の性質を捉えたとする。


そのまま、感情と向き合い続ける。すると、翌日のアポイントで相手にどんなことを言われるかを何度も何度も気にしている自分に気づく。アポイントでのコミュニケーションを何度も何度も頭の中でシミュレーションしている。


「こういう質問をされたらこんなふうに返そう」

「こういう自己紹介をしたら良い印象を与えられるだろうか」

「無関心な態度で終始されたらどうしよう」

「そんな嫌な体験をしなきゃいけないなら、いっそキャンセルしようかな」


そして、これらの言葉や思考が「ソワソワ落ち着かず、一つの場所にとどまっていられない」という感情の性質と確かに合致した思考であることも確認できたとしよう。一体、これらの思考は何だろうか。どのように理解すれば良いのだろうか。



3.「なぜ」を身体に問いかける


おすすめのアプローチは、その答えを思考(頭脳)に求めないことだ。あくまでも身体感覚に答えを求めていこう。身体知性や無意識の領域は本当に優秀で、意識で構成する思考よりも遥かに賢い。


「なぜこんなことを気にするの?」

「なぜこんなことばかり考えているの?」

「なぜそんなことをしようとするの?」


どんな質問でも良い。とめどなく湧いてくる思考の根源である身体に、そう問いかけてみよう。



4.身体からの答えを待つ


身体へ「なぜ」を問いかけたら、次にやることは「待つ」ことだ。むやみに思考で原因を探そうとしない。引き続き感情の観察を続けて、答えが返ってくるのを待とう。


思考に答えを求めず、感情にも踊らされず、ただただ客観的に感情を観察している状態で「なぜ」の答えを待つ。その状態を維持していると、フッとインスピレーションのように「気付き」がもたらされることがある。「あッ!」と気付くことがある。


「人からどう見られるかばかり気にしている!」

「人に嫌われてしまわないかいつも怯えている!」

「ありのままの自分では生きていけないと思っている!」


人によって、シチュエーションによって、様々な気付きがあると思う。ただ一つ共通しているのは、「気づいたときは、気づいたとわかる」ということだ。何かしっくりこなかったり、腹に落ちなかったりするときは、おそらく求めていた答えではない。


分かるときは、分かる。それはきっと自分が一番知っている。


「そうだよ、、これだよ、、僕はいつも、これを気にして生きてきた・・」


そういう気付きというのは、人生においてとても貴重で尊い気付きだ。人生を前に進めるための有意義な気付きだ。そういうものに出会ったら、それと分かるようになっている。


答えが返ってこない場合はどうしたらいいだろうか。筆者からのアドバイスは、「Not Today」だ。今日はその日じゃなかった。また別の日に。


焦らず、じっくり取り組もう。必要なときに、必要な気付きを得られるようになっている。気づいた日が、気付くべき日なのだ。そのように考えよう。


辛抱しながら、焦ることなく、継続的に感情と向き合う日々を続けていると、きっと何らかの気付きを得るようになる。そして、それを繰り返していくたびにその気付きは深まっていく。表層的なものから、より深層的なものへ。その繰り返しを重ねていくことが、深く本質的な自己理解に繋がっていく。


感情から湧いてくる言葉や想いを発露として、さらに自分の理解を深めていく。


私は、世界を、自分を、どのように認識しているか。その認識に偏りはないか。偏りがあるならば、それは何か。どんなことに囚われているか。どんな固定観念を持っているか。そして、それはなぜ生じたか。元々、どんな願いや想いがあったのか。そこに真の私、ありのままの私がいる。


そんな玉ねぎの皮むきにも似た慎重な向き合い方。一連の旅路。


次のステップでは、その感情を引き起こした「固定観念」の特定方法について説明を進めていきたい。




続きは近日公開予定


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