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執筆者の写真中村義之

内省と内観と私 〜心と上手に向き合う方法〜(1/4)




はじめに


「みんなの才能研究所」(略して「みんラボ」)というポッドキャストに昨年の夏からパーソナリティとして出演している。当ポッドキャストのテーマは、端的に言うと「才能について研究&議論する」というもの。友人の"たかちん"が主催しているのだけど、彼の定義によると、才能とは「ついついやっちゃうこと」の延長にあるという。


詳しくはポッドキャストを聴いて頂けたらと思うが、ついついやっちゃうがゆえに、その人はその行為に習熟し卓越していくという。なるほど、確かに。詳しい説明を待つまでもなく納得感がある。


みなさんの「ついついやっちゃうこと」は何だろうか?僕はポッドキャストの出演を通じて、他者の「ついついやっちゃうこと」をたくさん観察するようになったし、それの延長にどのような才能が開花していくかも興味深く考えるようになった。


多様な才能を発見するにつれて、世の中にはたくさんの才能が溢れていて、本当に一人一人、唯一の存在なんだなと改めて世界の素晴らしさを実感している。そして、その興味や関心のベクトルが自分に向くのは自然な流れだった。


自分が「ついついやっちゃうこと」を知るためには、他者との比較が最も効果的だ。自分が無意識にやっていることに意識を向けるのは難しい。「こんなの当たり前でしょ!?」という固定観念がどうしても定着しているからだ。僕の場合も同様だった。人様の行動傾向や才能については数十分も会話をすればある程度見抜けるけど、自分のことになるとよく分からない。


逆に言えば、自分のことを見抜いてくれる人と会話をして、自分の言動を観察してもらえば発見しやすいとも言える。詳しい経緯は長くなるから省くけれども、僕の場合は「内省」という行為が「ついついやっちゃうこと」に該当するらしい。それ以外にもいくつかあるはずだが、今回はその「内省」について自分なりの考えを綴っていこうと思う。



内省と私


内省とは一体何だろう?一般的な定義を辞書で引く前に、僕なりの定義を書いてみようと思う。どうやら僕は、一般的な辞書の定義に自分の行為を制約されたくないようだ。自分が「ついついやっちゃってる行為」に対する自分の理解はとても深く、解像度が高い。


その行為に名前をつけてラベリングするときに、世の中で流通している「単語」を用いた場合、どうしても一般的で公共なる概念にすり替わってしまう。その単語を用いた主体が、必ずしもその単語の意味通りのことを表現したいわけではなく、「その単語が最も意味が近かったから」という理由で用いただけだとしても。前置きが長くなった。僕にとっての「内省」の定義は以下の通りである。



僕の「内省」の定義

自分の中に生じる思考や感情を客観的に認識し、それらの発生要因を省みて特定する行為。また、特定した上でその思考と感情をどのように取り扱うかを判断する行為まで含む場合もある。

うん、しっくりくる。しっくりくるな。これをやってますよ、ついつい。さて、Googleで検索してみよう。goo辞書に掲載されていた「内省」の定義は下記の通り。goo辞書様、有り難うございます。下記に引用させて頂きます。


1 自分の考えや行動などを深くかえりみること。反省。「過去を―する」, 2 「内観 (ないかん) 」に同じ。


なるほど、面白い。僕の定義のほうが詳細に書かれているのは当然ですね。ついついやっちゃってる分、一般的な内省よりも解像度が高いことは当然。それに、辞書の定義の解像度があまりにも高すぎると、日常的にこの単語を多くの人が使うことが難しくなるし、この単語を用いて僕のように独自の意味づけをすることが制限されてしまう。なので、一般的な言葉の定義というのはこれぐらいの粒度が適切だと思う。そのおかげで、僕なりの定義を紹介する意義に筋が通るわけである。


もう一つ違う点があることに気づく。僕が省みる対象としているのは「思考と感情」だが、一般的な言葉の定義では「考えや行動など」が対象となっている。これを受けて僕はどう考えるだろうか。特に、内省の対象に「行動」を追加しようとは思わない。行動はやはり、思考や感情をどのように受け止めるかの意思決定によって生じる二次的なものだと思うからだ。


最後にもう一つ、「内観(ないかん)」を同義語としてgoo辞書は併記している。この記事のタイトルを改めてお読み頂ければ分かる通り、僕は「内省」と「内観」を別のものとして取り扱っている。つまり、内省の定義と内観の定義は僕にとって違うものであり、僕はそれらの行為を使い分けていることになる。内観については、この文章の後半で定義を紹介するつもりだ。まずは、僕の定義としての「内省」について話を続けていきたい。



「僕の内省」の起源


せっかく僕なりの「内省」の定義をご紹介したので、この先の文章で用いる「内省」という単語は僕の定義としての「内省」として読み進めていただけると嬉しい。さて、内省という行為を僕が始めたのはいつからだろうか。それは、萌芽の時期と開花の時期の2つの時期に分けられると思う。3つ目の時期は、ご明察の通り「内観」へと移行した時期だ。


「萌芽」という言葉を使えば聞こえはいいが、全くもって格好の良いものではない。むしろ格好悪いし、有料記事でなければ書くのも憚られるぐらい恥ずかしい話でもある。みなさん、スマホかタブレットでこの記事を読んでる方が多いですかね。もしリラックスして読んで頂いているとしたら、せめて笑ってあげてください。いたたまれないぐらい恥ずかしい過去の記憶も、その微笑みで成仏するかもしれません。


僕は幼少期からとても上がり症で、怖がりで、ビビりやすい子供だった。例えば、幼稚園のお遊戯会や発表会で衆目にさらされると、赤面して頭が混乱し、歌わなきゃいけない歌詞がすっぽり頭から消滅するほどに。幼稚園の年長さんの発表会で一人で壇上に上がって歌うとき、次の歌詞が緊張で吹っ飛んで、永遠にも感じられるような「無」の時間を過ごしたときの赤い顔の温度感は、いまだに脳内で再現できる。


小学校の体育の授業では、小学6年生になってさえも、一度も鉄棒で逆上がりができるようにはならなかった。特に運動神経が悪いわけではなくて、サッカークラブでキャプテンを務めるぐらいだったんだけど、体を鉄の棒の上で逆さまに回転させるという常軌を逸した所作に僕の小さな心臓は縮み上がった。他にも、跳び箱を跳べなかったり、ケンカですぐ泣いたり。僕はそんなしょうもないことで随分と情けない思いをしていた子供だった。


学校の先生に叱られると、その心理的ダメージは数日間ぐらい尾を引いた。部活の顧問や先輩にダメ出しされても、同じくらいダメージを喰らった。同じような叱責や怒声を浴びてもケロッとしている友人を見ると、傷つきやすくてナイーブな自分が心底嫌になった。ちょっとしたことで、僕の心の中は高いマグニチュードで揺さぶられ続けた。余震も長い。そういうのが本当に嫌だったな。本当に嫌だった。そんな自分が嫌いだったし、そういう言動を自分に浴びせた周囲を嫌いになりそうだった。そして、実際に嫌いになっている自分をもっと嫌いになった。


自分の心を嫌々ながらも常々観察するようになったのは、そんな幼い、もの心ついたばかりの頃だったと思う。決して、心を観察したかったからではなくて、観察せざるを得なかったのだ。必要に迫られたわけでもない。「止まれ!この心の揺れ、止まってくれー!」という悲痛な心の叫びだったのである。なんでこんなに僕の心は揺れ続けるんだろう。なんで人よりダメージをくらってるんだろう。なんで人よりも怖がりなんだろう。嫌だ嫌だ、そんな自分は嫌だ。なんとかならないのかな、これ。そんな経緯で、僕は僕の心を人一倍観察するようになったのだと思う。人一倍心の揺れが大きかった分、それに対処したい欲求も大きくなったのかもしれない。


「ついついやっちゃう」からと言って、それがすぐに何らかの能力だったり特技に変わるものではないことは、僕は自分の身を持って実感している。僕は人一倍自分の心と感情を観察していたけれど、ただ観察していただけだった。そして、その観察を続けた結果、良くない行為に傾倒し始めた。「蓋をする」という行為だ。感じたくない感情に蓋をする。負の感情を感じていないかのように振る舞う。「こんなの大したことない」と自分にムチを打つ。


自分の感情に蓋をすると、嫌なこと、やりたくないこと、苦しいことから生じる感情を一時的に回避できる。ダンボール箱に入れてクローゼットの奥にしまっておけば、その箱を開けない限りその中の感情を感じる必要はない。中学校に入って部活の上下関係とか、いろんな競争が始まってからというもの、僕は少しずつ負の感情を箱に入れてクローゼットにしまい続けた。中学、高校、大学、社会人、年齢を重ねるごとに、箱にいれなきゃいけない感情が増えていった。さらに悪いことに、もっと大きな箱がいくつも必要になっていった。僕の心のスペースは箱でいっぱいになって、結局はメンタル疾患を患うことになった。



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