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執筆者の写真中村義之

内省と内観と私 〜心と上手に向き合う方法〜(2/4)

「僕の内省」の転換期


メンタル疾患を患ってから、僕の感情の観察は新たな展開を見せた。なにせ、心の中は大小たくさんのダンボール箱でいっぱいなのである。もう追加するスペースはないし、追加しようものなら溢れ出てまた病気になってしまう。何か新しい方法を取り入れなければならない。そんなときに出会ったのが、「瞑想」だ。病気療養中に通っていたカイロプラクティックの先生に、こんなことを言われた。


「君は考えごとばかりしていているね。それでは脳が休まらないし、また病気になっちゃうよ。ボーッとしたり、無になるような時間を意図的に持った方がいい。座禅とか瞑想をやってみらたどうだい。」


僕は施術台の上に寝そべって黙って施術を受けていただけなんだけど、確かに施術を受けながら「あーでもないこーでもない」としきりに頭を働かせていた。無言の僕の頭の中の状態を看破した先生はさすがだなと感心しつつも、「確かに僕はずーーっと考えごとばっかりだな、確かに疲れるわ、これ」と確認したことを覚えている。


しかし、カフェでコーヒーを飲んでる時も、電車に座ってガタゴト揺られているときも、「何も考えない」っていうのは本当に難しい。「座禅」とか「瞑想」というものが「無」になることを助けてくれるのであれば、ひとつやってみようか、と思い立った。



座禅と瞑想のスタートキット


僕が座禅や瞑想を始めるにあたって、どんなことから手をつけたのかをご紹介したい。僕は理論と実践を両方同時に習得するのが最も実用的な学習方法だと思っている。座禅や瞑想についても全く同じアプローチで着手した。Amazonで瞑想の本を購入すること、近所のお寺の座禅会に参加すること、その二つがまず最初に始めたことだ。


購入した書籍


当時、Amazonで「瞑想」「座禅」とかで検索して発見した書籍のはず。僕が購入したのは、下記の『マインドフルネス』(マンテ・H・グナラタナ著)という本で、Amazonの購入履歴を確認すると、2014/10/21となっている。



10年近く前に出版された本なので、今ではAmazonで新品は売っていないようだ。マーケットプレイスで中古本ならばお求め頂ける。今となっては、マインドフルネスや瞑想はビジネスシーンでも流行するようになったけど、7年以上前の当時はあまり書籍が多くなくて、その中から選んだ本だった。今ではたくさんの書籍が出回っているので、何でも手に取って良さそうなものを購入するといいと思う。


この本のAmazonの説明書きに下記のような記載がある。


マインドフルネス(ヴィパッサナー瞑想、気づきの瞑想)の実践入門書として、米国で出版以来20年以上にわたり読みつがれ、世界15カ国で翻訳されているロングセラー。仏教の知識がなくともわかる平易な言葉で、ヴィパッサナーを実践するために必要な情報を余すところなく伝え、確かな評価を得ている。

僕が本を購入するときに重視したのは、瞑想のやり方が具体的に書いてあり、初心者でも分かりやすいこと、だったので、この本は今振り返っても最適な選択だったと思う。本が手元に届いて、その夜からこの本に書いてある通りに瞑想を開始してみた。



参加した座禅会


僕は当時、都内の中央区に住んでいて、座禅会を開催しているお寺をGoogleで検索した。すると、門前仲町にある寒光寺という臨済宗のお寺が月1回、一般向けの公開座禅会を開催していることを発見。自転車で行ける距離なので、ドキドキしながらとりあえず一度参加してみようと思って足を運んだ。


※寒光寺は現在、慧然寺と寺名を変更しているようですが、座禅会は定期開催しているようです。(2024年10月1日現在)



初参加者は座禅会開催30分前に初心者講習に参加できる。そこで座禅のイロハを分かりやすく説明してもらって、30分後に本番スタート。僕の記憶が正しければ、確か25分を2セット。最後に、ご住職の法話を拝聴して終了だったと思う。


初心者にとって25分という時間は鬼のように長くて、最初は姿勢を保つのがやっと。組んでいる足が痛いわ、背筋が痛くなるわで大変だった。でも、家で一人で実施するよりも周囲の熟練者の所作から学ぶことがあるし、分からないことがあれば住職に聞くこともできる。僕は何度か初心者の友達を誘って参加したので、何度も初心者講習を聞くことができた。実践を通じた体感がある分、一度聞いたことのある初心者講習でも学びは深くなるし、お勧めだ。


書籍を購入してそれをもとに自分なりに実践してみる。座禅会に参加して本格的な指導を受けてみる。仏教の方には怒られるかもしれないけど、僕は座禅や瞑想に正解はないと思ってる。いろんな手段や見解を自分なりに取り入れて、自分なりの瞑想の習慣を日常に定着させることのほうが大切じゃないかなと。それで習慣化することができて、もっと本格的に実践したくなったら、然るべきステップに進んでいけばいいのだ。興味がある方は、ぜひ手頃な書籍を購入して、近所の座禅会を検索してみてほしい。



瞑想による内省の発展


「座禅」とはおそらく仏教用語だと思うので、仏教の正式な座禅を実践しているわけではない僕は、「瞑想」という言葉を用いようと思う。カイロプラクティックの先生の勧めで、瞑想を毎日実践するようになってから僕の内省は格段に進歩を遂げたと思う。自分の心を人一倍観察するようになった幼少期を僕の内省の萌芽期とするならば、瞑想を実践することで内省を進歩・発展させた時期は開花期と言えるだろう。


それまでの僕は、ネガティブな感情や思考を頭や心の中でとらえたとしても、蓋をする以外の対処方法を持っていなかった。いや、正確に表現するならば、なんら対処法を持ち合わせていなかったと言うべきか。「蓋をする」なんて対処法ですらないからだ。


では、僕は瞑想を実践することでどのように内省を進歩させ、ネガティブ(もちろんポジティブも含む)な感情へのどのような対処法を手に入れたのだろう。それはまず、「観察」することから始まる。みなさんが書店で購入するあらゆる瞑想に関する書籍でも、おそらく僕が読んだ書籍と同様に「観察」することの大切さを説いていることだろう。


僕は冒頭で紹介した僕なりの内省の定義で、「思考や感情を客観的に認識」するという表現を用いた。思考や感情に説明は不要だろう。では、「客観的に」となるとどうだろうか?果たして、自分の思考や感情という、どこまでいっても主観的なものにしか思えないような現象を、「客観的に」とらえることなどできるのだろうか?厳密に実践しようと試みる人ほど、混乱が生じる表現かもしれない。


「客観」とは、自分以外の何者かの「主観」である。そういう意味において、純粋な「客観」など理論上存在しないはずである。そのように考えてしまったら、行き止まりになってしまうので、ここはもっと便宜的に考えよう。ある被観察物が、観察者の主体的意識から切り離された「別物」として取り扱われ、観察される場合、その被観察物は「客観的に」観察されたことになるはずだ。なので、「客観性」を成立せしめようとするならば、不可分に思われる存在を便宜的に切り分けて別個のものとして取り扱うことが必要なのだ。


つまり、自分の思考や感情を被観察物として「自分ではない何か別物」として取り扱い、観察することで、僕たちは「客観的」という便宜的な概念にすぎないポーズをとることができるのである。もっと簡単に表現すると、「自分の思考や感情を、あたかも自分のものではないかのように観察しよう。」ということだ。


自分の感情や思考を自分のものではないように取り扱う。果たしてそんなことって、できるのか。もし仮にできるとしたら、その方法はどういうものか。結論から言うと、できるし、その方法はある。少なくとも、便宜的にはそのような態度をとることはできる。



意識と身体を切り離す


自分の思考と感情を客観的に取り扱うというアプローチにおいて、「思考」と「感情」はそれぞれ異なるアプローチが必要であることを覚えておこう。理由はあとで説明するけど、「客観的」という態度をとりやすいのは、「思考」ではなくて「感情」だ。


意外に思った人は多いのではないだろうか?僕がこの記事の読者で、瞑想の経験もなかったとしたら、「思考」のほうが自分にとって取り扱いやすいもののように思えるだろう。「感情」っていうのはドロドロしたスライムみたいに、とらえがたいもの思えるからだ。もし、かつての僕のように感じる読者がいたら、以下のように説明したい。


「思考」は意識がつかさどり、「感情」は身体がつかさどる。


そう、感情というのは身体感覚でとらえられる生理現象なのだ。悲しいと胸が締め付けられる。恐怖を感じると体が震えたり硬直したりする。怒りを感じると頭に血がのぼる。嬉しいときは筋肉、とくに表情筋が緩む。などなど、感情というものは基本的に身体感覚として捉えることができるものだ。それ故、とても観察がしやすい。もちろん、とても悲しんだり落ち込んだりしているときは、観察する余裕さえなくなるだろう。しかし、観察することが困難であることは、観察することが不可能であることを意味しない。感情がある程度鎮まったときに観察すればいい。


一方で、「思考」はどうだろうか。「思考」しているときに、脳という臓器の中では何らかの電気信号が発生しているのだろうけど、僕はその電気信号を観察するための感覚を持っていない。おそらく、みなさんも同じだろう。思考をとらえようと観察を始めると思考は止まる。思考しながら観察をすることはできない。ぜひみなさんも一度試してみてほしい。この記事を読んでいる端末から目を離してみて、何か考え事をしてみる。考えごとをしながら、考えごとをしている自分に気づいてみる。考えごとをしている自分に気づいたとき、その思考は止まりませんか?


ノートやメモ帳にでも書き出さない限り、思考を客観的に観察することは難しいと思う。もちろん、書き出すことは一つの手段として有効なのでお勧めではあるが、一旦、思考を書き出さないことを前提に論を進めていきたい。試してみてもらった方の多くに共感いただけると思うが、「思考」している自分を「思考」している最中に、同時並行で客観的な観察を加えることは非常に難しいと僕は思っている。不可能ではないかもしれない。しかし、その不可能に挑戦して得られる果実はその努力に釣り合わない気がするので、あまりお勧めはしない。僕たちが取れる適切な態度としては、「あ、今ずっと考えごとしちゃってたな」と出来るだけ早めに思考を止めて「気づく」ことである。


ここで、改めて内省の定義について振り返ってみよう。


自分の中に生じる思考や感情を客観的に認識し、それらの発生要因を省みて特定する行為。


「思考や感情を客観的に認識し」のところまではご理解いただけただろうか。思考や感情を自分とは切り離された別個の対象物として認識する態度をとり、思考に対しては「思考を止めて思考していた自分に気づく」というアプローチで認識し、感情に対しては「身体感覚として生じる現象を観察する」というアプローチで認識する。


多くの瞑想の書籍では、「観察」して「気づく」ことを重視しているはずだ。内省する上でもここが最初の出発点である。そして、記事の終盤で詳しく述べるが、この「観察」して「気づく」という行為だけを切り取った活動を僕は「内観」と定義している。


さて、「内観」ができるようになったら、次のステップだ。「思考や感情の発生要因を省みて特定する行為」に進んでいこう。



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