心の問題への対処3ステップ
僕がAさんに相談を受けたとしたら、以下の3つのステップで対処することを提案する。これは僕なりの提案であって、読者のみなさんが他により良いステップを考案されるのであれば、ぜひ僕の提案をしりぞけてほしい。
STEP1:思考におちいる自分を認める
まず、思考におちいっている自分を認めてあげよう。前日になって急に依頼されたんだから、良い報告書をまとめられるか不安になるのは当然だよ。もしかしたら前もって数日前に依頼されていたとしても不安になったかもしれないけど、今はそんなこと考えたって仕方ないしね。
だけど、就寝前に自宅で瞑想しているAさんは、オフィスにいるわけでもなければ、上司が目の前にいるわけでもないよね。今現在起きているわけではない事象にあれこれ心配してしまうのは仕方ないけど、その行き場のない思考が無意味なものであることは理解したほうがいいよ。
いや、もちろん、不安で思考が止まらないAさんを責めているわけではないよ。思考しちゃうのは仕方ないけど、意味のない思考であることも分かっておいたほうが、思考に呑み込まれずに済むからさ。とりあえず、思考におちいってしまう自分がそこにいることを確認して、そのまま受け入れよう。
STEP2:湧き上がる思考を追わない
思考におちいる自分を受け止めることができたら、次にやることは「思考を追わない」ことだ。瞑想中は呼吸に集中しているだろう。考えごとをしている自分に気づいたら、その思考を止めて、思考の続きを追わないこと。思考をやめて、また呼吸に集中しなおすんだ。最初は難しいかもしれない。不安だから考えてしまうのであって、不安である限り思考をしていないと落ち着かないだろう。
でも、思考をし続けていて、君は落ち着くことができるのかい?STEP1で無意味な思考であることは確認したよね。思考しても、思考しなくても不安が解消されることはない。それならば、四六時中休むことを知らない脳みそに、しばらく休息を与えたっていいじゃないか。脳の酸素消費量が減らして、呼吸がしっかり全身に行き渡るようにしよう。次第にリラックスしてくるよ。よく眠れるようになるかもしれない。
最初は難しいかもしれないけど、少しずつ、「思考を追わない」ことができるようになってほしい。「追わない」が難しいのであれば、こう考えたら良い。「呼吸だけに集中する」だ。それが1秒でも2秒でもいい。少しずつ時間を伸ばせるようにやっていこう。
STEP3:感情を共有する
「思考を追わない」ができるようになったら、とても大きな進歩だと思う。それで問題の半分は対処できたようなものだ。もう少し楽になりたかったら、自分の感情を人に共有するといい。家族やパートナーでもいいし、友達でも同僚でもいい。自分が安心して心を開ける人に、今自分がどんな感情を抱えているかを、率直に話してみると随分楽になるよ。もしカウンセラーやコーチと契約しているのであれば、そういったプロに相談するのも良いだろう。
その時に、覚えておいてほしい大事なことがある。それは、「解決を求めて話さない」ことだ。不安な気持ちっていうのは抱えていると不快なものだから、できるだけ早く解消したいと思うかもしれないけど、STEP1〜2で見てきたように、誰かに話しても原因がなくなることはないんだ。できないことをやろうとしても、望んだ結果は得られない。さらなる落胆を生むだけだ。解決を求めない。それさえ気をつけていれば、率直に自分の心象風景を人に話すだけでちょっとは楽になる。そして、最後にちょっとだけ難易度が上がるけど、明日出社したときにその上司にも感情を共有したらいいと思う。
「何か事情があって前日までと指示をいただいたのだと思いますが、確保できる時間内で作成する報告書の内容で満足いただけるか不安です。」
などなど、自分なりに正直に感情を伝えられるとグッと楽になる。運がよければ、その不安がほぼ解消されることも期待できるだろう。
だけど、ここでも大事な注意点がある。それは、「決して上司を責めないこと」だ。「あなたが直前に依頼したせいで私は昨日からずっと不安なんです!」なんて強い口調で上司を責めたら、相手もムキになってしまうかもしれない。
負の感情と負の感情がぶつかり合って、さらなる状況の悪化を引き起こすかもしれない。上司にも何か事情があったのかもしれないし、その辺りを配慮して率直に気持ちを伝えよう。そしたら、きっと悪いことにはならないだろう。もし仮にネガティブな反応が返ってきたら、また相談に来てほしい。そのときは職場を変えることを提案するかもしれない。
感情と思考の取り扱い方
とまぁ、僕なりのAさんへのアドバイスを長々と書いてきたけど、感情と思考の取り扱い方について何となくイメージを持っていただけただろうか。ケースバイケースでSTEP1〜3の内容は変化するかもしれないけれど、概ねこういった流れで対処していくと、「蓋」をせずに適切に向き合っていけると思う。
感情と思考の取り扱い方について、大切にしてほしいことを最後に2点お伝えしたい。
1つ目は、感情について。感情というものは、「しっかり感じ切らないと消滅しない」という性質を持っている。そのことをぜひ覚えておいてほしい。蓋をしたり、なかったことにしたり、軽視したりして、100%感じ切らずに食べ残した感情は、心の中で消えることなく必ず蓄積していく。こじらせない内に、腐らない内に、食べるべき時に食べてしまわないと病気になってしまう。
では、どうやったら感情を「感じきる」ことができるのか。それは、その感情から生じる身体感覚をしっかりと「自分のもの」として受け止めるしかない。内省するために客観的に自分から切り離した感情を、あらためて「自分のもの」として認めるのだ。難しいときは、しばらく切り離したままでも構わない。少しずつ取り戻して感じるのでも構わない。余裕があるときに、覚悟ができたときに、しっかり感じてあげてほしい。なぜなら、感情こそが、あなた自身だからだ。
あなたが人生を生きるということは、感情を受け止める活動に他ならないからだ。感情は、受け止められるためだけに発生している。ぜひ無理がないときに、無理をしない形で、生きている証拠である感情を受け止めてあげてほしい。
2つ目は、思考について。思考には2つの種類があると思う。建設的な思考と、迷宮入りの思考の2つだ。後者の「迷宮入りの思考」は、思考とは名ばかりの「感情から湧き出る湯気」のようなものだ。
不安や恐怖や焦りなど、ネガティブな感情が感じきられずに心の中で発酵を始めると、とりとめもない思考という湯気を発生させて頭の中に漂ってくる。この湯気は思考のように見えて思考ではないので、考えても何も建設しないし、何も生み出すことはない。湯気は湯気として観察するにとどめて、その意味とか論理などを追うことは止めておこう。それは砂漠の蜃気楼のように、実態のないものだからだ。
内観と私
この記事の冒頭で「ついついやっちゃうこと」という行為が誰にも存在することを述べたと思う。改めてそれについて言及すると、僕はここまで長々と内省について1万文字を超える分量を執筆できるほどにその行為を熟知し、四六時中やっているがゆえに習熟している。文字数がそれを証明しているとすれば、僕自身がとても納得するほどに。幼少期の自己嫌悪から発生した自分の心をとらえる取り組みは、瞑想というメソッドで素敵な「内省」という能力へと変貌を遂げたのだ。
そんな僕が今取り組んでいることは何だろうか。それは、逆説的に言ってしまえば、「内省しない」ことだ。僕が定義する内省の定義に「内観」が含まれていることはすでに述べた。現在、僕は「内観」だけにとどめて、「それに対して何も対処しない」ということを試みている。
内観の定義
なぜ今の僕が「内観だけにとどめる」という態度を取ろうとしているかを話す前に、僕なりの「内観」の定義をここで紹介したい。
自分の中に生じる思考や感情、身体感覚を客観的にとらえ、自分のものとして受け入れる以外の一切の対処をしない観察行為。
冒頭だけは「内省」と同じだけど、「身体感覚を〜」以降はまったく異なる行為であることを理解いただけると思う。僕なりの内省は、自分の内面を観察した後に、それに対してどのように対処すべきかを判断する行為だ。それに対して、僕なりの「内観」とは、ただただ「観察」することだけにとどまる行為と定義している。
「観察」にとどまるワケ
僕が定義する僕なりの内省を仮にみなさんも実践できるとしたら、僕が定義する僕なりの「内観」を実行することはおそらくそんなに難しくない。少なくとも、前半部分の「観察」という行為は問題なく実践できるだろう。一方で、定義の後半部分はどうだろうか。「自分のものとして受け入れる以外一切の対処をしない」という部分だ。
別に対処しないのが偉くて、対処するのが偉くないと言いたい訳ではない。ただ、「対処しない」という態度を取ることが難しいことは共感を得られるのではないだろうか。かつての僕だったら、負の感情に対して対処しないなんて考えられない。いてもたってもいられずに対処に突っ走ったことだろう。今の僕だって、対処したくなることに変わりはない。ではなぜ、対処しない態度を取ろうと考えているのか。
崇高な理由を期待してくれた方には大変残念な回答になってしまうのだが、僕はただ、対処することに疲れたのだ。「飽きた」と表現してもいいし、「諦めた」でもいいだろう。人一倍打たれ弱い心をもって、人一倍「蓋」をして、メンタル疾患まで患って、対処に対処を重ねてきた僕は、やっとこさ「瞑想」によって健全な「対処」を習得するに至った。その結果、「健全」な対処をし続けるようになった僕は、何を思っただろうか。それは「徒労感」である。対処しても対処しても、結局は負の感情や感覚を受け入れることでしか心の波は穏やかにならないのである。
逆に言えば、何も対処をしなかったとしても、感じたくないものを感じ、受け入れたくないものを受け入れてしまいさえすれば、心の波は穏やかになるのである。その波が、永遠とも思われるほどに長時間続いたとしても、受け入れ続ければ、いつかは穏やかになるのである。そのことに気づいた僕は、何らかの対処をすることがとても無意味な徒労に思えてきた。
先に、「感情は、受け止められるためだけに発生している」と述べた。本当にその通りなのである。僕の心の機械仕掛けが、他の人類皆々様の心の仕組みと同じものだったとしたら、皆さんの感情も、受け止められるためだけに発生しているんだと思う。もちろん、その「受け止め」が困難で厄介なのだけれども。
感情を擬人化して表現するならば、彼は自分を生み出した原因が対処されることを望んで生まれてきたわけではない。ただただ彼自身が存在することをしっかりと認められて、抱きしめられることだけを望んで生まれてきたのだ。そして、彼は、彼という感情の主であるあなたそのものなのだ。
人間存在の実相としての「心」
「あなたはどんな存在ですか?」という問いが、「僕はどんな存在ですか?」という問いと同義であることを許してくれるならば、僕のその問いに対する回答をも、あなたのものとする検討の余地をいただけないだろうか。
僕は、僕の心だ。
これが僕の回答である。僕という存在は、僕の心そのものである。僕の身体は、今日までに食べた食糧と、今日までに飲んだ水分でしかない。何週間か、あるいは何ヶ月かですべて入れ替わって、地球の中で循環する。もしかしたら、そんなに長くない季節を経て、他の誰かの身体になっているだろう。逆に言うと、僕の今の身体はつい最近まで誰かの身体だったのかもしれない。それが人でなくて、植物や動物であったとしても、同じ循環の中にいることに変わりはない。僕の身体は、僕ではない。あなたの身体は、あなたではない。
その事実にぜひ落胆しないで欲しい。かつて自分ではなかった物質が自分の身体となったとしても、僕は僕として一貫性を持つ存在として生きている。あなたはあなたとして一貫性を持つ存在として生きている。では、僕を僕たらしめているもの、あなたをあなたたらしめているものとは、一体何だろうか。それは、心だ。それは、感情だ。身体は、その感情を感じるための機械仕掛けの装置に過ぎないのである。「過ぎない」なんて言ったら身体に失礼か。身体は、有り難くも、喜怒哀楽という感情を僕の心に届けしめることによって、僕が僕であることを強烈に自覚させてくれる精巧な機械である。そう、嫌というほど強烈に。
僕たちは、感情を感じるために生きている。生きているとは感情を感じることだ。上手に生きるとは、感情を殺すことではない。感情を殺すとは、自分を殺すことだ。自分を大切にするということは、自分の中で生じる酸いも甘いもすべての感情を自分のものとして大切に感じきることだ。
なぜ、感情を発生させる原因に対処などしなければならないか。なぜ、感情を見て見ぬふりなどしなければならないのか。なぜこんなに、受け止めきれないぐらいのしんどい感情が発生する人生なのか。その運命に対する回答は別の機会に譲ろう。ここでは、ただ、僕が「内観」という観察にとどまる理由とその決意を述べるにとどめておく。
やり切れない感情の受け止め方
感情や心が人の存在そのものであり、結局はそれを受け入れるしか道がないとしても、一体どうやったら、この怪物のような感情たちを自分のものとして受け入れることができるのだろうか?
正直に白状すると、僕はその方法を確立してないし、仮に確立していたとしても披露するつもりにはならないだろう。僕は、僕が経験したことから生じる感情しか取り扱ったことがない。僕が経験したことのないような経験をして、僕が取り扱ったことがないような感情を取り扱わなきゃいけない人々に、アドバイスしようと発想するほど僕は傲慢ではない。それはもう、あくまでも孤独な作業でしかないことだけは、理解しているから。ただ僕にできることは、真摯に感情に向き合う人に寄り添うことだけだと思っている。
(終)
【内省をより一層実践的に取り組みたい方へ】
具体的な内省の手法については、「内省の手引き」の連載をお読みください。