【内省の手引き】#010 ステップ7 原因となる観念の特定
- 中村義之

- 2 日前
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更新日:6 時間前
これまでのステップの確認
何か満たされぬものがあったら泣きさけんで、欲求が満たされたら微笑んで、幼児のように生理的要求と感情とが分かりやすく表現されていればどんなに生きやすいことだろうか。
我々大人はそうはいかない。成長するにつれて社会性を身につけるために、自分の欲求や感情を適切に管理して社会を生きていかねばならない。
家庭や社会での人間関係で揉まれた結果、本来の感情とは異なる表現をするような習慣が身についてしまったり、そもそも自己の感情を表現すること自体を控えるようになることもある。
その結果、何が自分の本当の感情で、自分の本当のニーズは何なのかさえ、見失うようになってしまう。
この内省の手引きで繰り返し「感情を感じ切ろう」と述べているが、そもそも感情を曲解して受け止めていたり、感じるより前に思考で処理しようとしていると、痒いところを厚い服の上から触れているようなもので、直接的な解決には至らない。
本稿ステップ7では感情の原因となる「観念(考え方の偏り)」を取り扱う。こちらの手引きをお読みになる方の参考となるように、対処療法ではなく根本的な原因にアプローチする内容にしていきたい。
そのためにもこれ以前のステップにおいて、思考を手放した上で感情を感じるという行為に到達したことを確認してから読み進めて欲しい。
ネガティブな感情を感じたくないあまりに、感情に目を向ける前に思考で処理しようとすればするほど、その原因となる偏った考え方が解消されるどころか、一層強化されることになるからだ。
もちろん、これ以前のステップで感情をしっかりと感じ切った結果、感情がまったく解消されて、対処すべき現実の課題も消失したとした場合はこれ以降のステップは不要である。
原因となる観念の特定
偏った認識が悪い感情を引き起こす
私の経験上、人生やキャリアで厄介な問題を引き起こす感情というのは、自分自身の偏った考え方だったり、偏った認識から生じることが多い。
偏った認識というのは質の悪い鏡のようなもので、事実をありのままに映さない。余計な色が付加されたり、形が歪められたりする。
例えば、ある出来事が起きたとして、それをポジティブに受け止める人もいれば、ネガティブに受け止める人もいる。事実はただ一つなのに、人によって解釈が異なる。
人それぞれ、各々のフィルターを通して事実を受け止めるから解釈が異なるわけで、もし、ある出来事に対して周囲は平然としているのに自分だけがネガティブな感情を持っているとしたら、それは自分の「フィルター」が原因かもしれない。
一つ前のステップ「感情の読み取り」において、どのような気づきがあっただろうか?具体的な葛藤や課題を抱えた状態でこの手引きを読み進めてくれている方はぜひ思い返してみてほしい。
あなたは、その感情を引き起こした事象をありのままに受け止められているだろうか。何らかの偏ったものの見方、不必要な解釈を伴っていないだろうか。
陥りがちな認識
もし、自分自身に公平に向き合った上で、「もしかしたら自分の認識に偏りがあるかもしれない」と健全な批評をご自身に向ける準備ができたなら、以下を読み進めて欲しい。
私自身がこれまで向き合ってきた自分の中の「偏り」をいくつかに分類して紹介してみたい。
1. 拡大解釈
一つ目は、拡大解釈。往々にして対人コミュニケーションで発生する。稚拙な例を挙げるならば、幼少期に親から「今日の宿題やった?」と聞かれたときに、「早く宿題を終わらせなさい」という意図にまで広げて解釈するようなものだ。
コミュニケーションにおいて、相手の言葉の意図や背景まで慮った上で対話をすることは、円滑なコミュニケーションに役立つ。
しかし、強い上下関係や抑圧的な人間関係において緊張感を伴うコミュニケーションに晒されると、緊張や不安のあまり言葉の裏にある意図を読みすぎるようになってしまう。
仮にそのような関係性や組織から解き放たれたとしても、そのようなコミュニケーションの癖づけが染み付いてしまっていると、その後の対人関係に悪影響を及ぼすことになる。
仕事の成果物に対して受けた指摘を人格否定されたかのように受け取るような場合はこの分類の好例だ。
2. ネガティブな曲解
二つ目は、ある事象に対して不要にネガティブに受け止めてしまうこと。
例えば、職場で自分以外の誰かが褒められている場に居合わせたとき、自分が低く評価されているように感じることがある場合はこれにあたる。
あるいは、自分が褒められた場合であっても、皮肉を込めて言われたのではないかと疑って素直に受け止められなかったり、裏に意図(おべっかや社内政治)があるのではないかと勘ぐることもこれに相当するだろう。
そのような推定をすること自体がダメだというわけではなくて、そのような余計な邪推で心の穏やかさが損なわれるなら、正すべき「偏り」とみなしていいのではないか。
3. 選択肢の制限
三つ目は、特定の事象に対する反応ではなく、意思決定に直面した際に自ら選択肢を狭める「偏り」あるいは「制限」である。
例えば、「始めたからには責任をもって終わらせなければならない」とか、「自分にはこの職業しか選べない」とか、「どうせ自分には無理だから」とか、そのような制約を自分に課していないか。
そのような制約が前提になっているがゆえに、自由な選択ができずに苦しむケースはとても多い。
4. 偏った世界の見方
四つ目は、自分が人生だったり世の中だったりをどのように捉えているかにまつわる偏りだ。
例えば、「お金がないと幸せになれない」だとか、「良い大学を出ないと良い仕事に就けない」だとか。自分や他者をその人の社会的地位や肩書きで順序付けることもこれにあたるだろう。
本来、ものごとの価値などというのは相対的なものだ。また、何か目標や目的がある場合にそれを実現するための方法はいくらでもあるはずだ。ましてや、人の価値を何かを基準をもって測るなどできないはず。
しかし、人は往々にして世界を一通りの見方で見たがるものだし、自分が固執している価値観でものごとを評価したがる。その物差しの基準は、その世界観の内に存在する自分自身にも容赦なく向けられるものであるから、ときに自分自身をも苦しめることになる。
5. 執着と怖れ
五つ目は、これまでの四つを包含するようなものかもしれないが、あえて一つ独立した項目として挙げておきたい。執着と、その執着を手放す怖れである。
執着というと、お金や人・モノ、地位や肩書きに対する「とらわれ」の印象をお持ちの方が多いと思う。もちろんそれらが「執着」というものの象徴的な対象ではあるけれども、他にもある。
「自分はこういう人間だ」というアイデンティティもその対象になるし、仕事やモノゴトの進め方のこだわり、価値観やライフスタイル、夢や目標、理想や志も含まれる。
失われてしまうと空虚さを感じたり、手放すことを怖れているものがあれば、ドライな言い方かもしれないが、それらは全て執着である。
逆に言えば、何かを怖れているとき、その怖れの原因は自分の中にある何らかの執着だ。その意味で、執着と怖れは表裏一体をなしていると言える。
内なる心の声は、どのような観念が原因で発せられたか
一つ前のステップで、ネガティブな感情が宿る部位を注意深く観察し、意識を向けることができた場合、多くの場合は「心の内なる声」を聞く幸運に恵まれる。
もし読者であるあなたがこの記事を読む前にご自身の内なる声を聞いておられたとしたら、それはどんな内容だっただろうか。ご自身の心はどんなことを叫び、何を求めていただろうか。
そして、その心の声が発生した原因として、ご自身がもつどんな観念(偏り)が働いているだろうか。
例えば、会社経営者が一人いるとする。その経営者は、ある社員から会社の現状に対する不満と改善の要望を強い口調で訴えられた。
客観的に見れば、会社をより良くしていくための良き機会に思うこともできる。しかしながら、その社長は感情的になる自分を認識し、賢明にもその場では聞き役に徹するにとどめた。
帰宅して、内省をして注意深く自分の胸に意識を向けたところ、「自分がつくった自分の会社なのになんでそんなことを言われなければならないんだ!」という強い心の叫びを自覚するに至った。
つまり、自分が大切につくりあげてきた会社を否定されたように社員からの訴えを拡大解釈していたわけだ。
また、経営者だけでなく従業員によっても構成される組織としての「会社」という認識を持ち得ず、「会社=創業者の人格」などとアイデンティティを同一視している自分に気づいた。会社という対象を偏った見方で認識していたことになる。
ここで一つの決断を迫られることになる。自分が所有していた観念(偏りやとらわれ)を手放すことができるかということだ。
もしその観念が自分にとって大切なもので、手放すのが惜しいと感じるならば、無理に手放す必要はない。それは個人の自由だ。
しかし、もし自分にとって大切なものが心の奥にあって、その観念が実現を妨げるように感じるならば、いっそ手放してしまった方が楽になる。
この手引きをここまで読み進めてくれた読者の多くが、手放すことを選択するのではないだろうか。
自身の認識の偏りや歪みに気づき、それを手放す。そして、その観念によって生じた負の感情を感じきって解消できたとしたら、素晴らしい内省のプロセスを経ることになるだろう。
そのようなプロセスを経た後であれば、起こった事象をありのままに受け止めることも容易になるはずだ。
なぜそのような観念を身につけたか
さて、私が人さまのご相談を承るとき、これらの観念(偏りや歪み)がなぜ生じたかについて深掘りを行うこともある。ときとして、その原体験や遠因を探り出すことが、観念の特定や現実的な問題の解決に役立つ場合があるからだ。
しかし、そのような遠因をたどるプロセスは、十分に自分の感情を「思考を介さずに」取り扱うことに習熟してからにしたほうがいい。
なぜなら、過去の原体験や遠因を探る際、現在と時間が隔絶されているが故に、感情ではなく思考に依拠しがちになるし、その結果、正解ではないもっともらしい「仮説」を原因として採用してしまう恐れがある。
そのような誤った仮説を自己の原体験として採用してしまうと、さらなる「偏り」や「とらわれ」を助長してしまいかねない。
不要な観念を手放すために
では、不要な観念を根本から根絶するためにはどうしたらいいだろうか。
それは、今現在自分が向き合うべき課題とただひたすら向き合い続けることである。
自我の意識の中に偏りがあれば、必ず向き合うべき感情的なイベントが発生する。深山にこもって孤独に暮らしていない限り、社会生活を営んでいれば必ず遭遇する。
そのようなときに、毎度毎度、しぶとくしぶとく自分の感情に蓋をせずに向き合っていく。
厳しく苦しい出来事ほど起きた瞬間は向き合い難いものだけれど、そういうときは時間を置いて向き合えばいい。
そのような真摯な内省を続ければ、過去の遠因など特定しなくても、「今この瞬間」の課題はしっかりと解決することができる。
次にまた課題に直面したら、めげずにまた向き合う。その繰り返しだ。
ひたむきな努力で自分の本来の輝きを取り戻すことができると、徐々にいつわりのない真の自分自身の意思や願いを発見しやすくなる。
次のステップでは、観念によって隠されていた内なる意志の見つけ方について紹介しようと思う。
